代表概要

サラリーマンから建設業の一人親方に

高校を卒業してから自動車販売会社で自動車整備士として働いていましたが、サラリーマンでない仕事に就きたくなって建設業の世界に飛び込みました。

私が選んだ仕事は、「あと施工アンカー工事」というものです。

基本的にキツイ仕事ばかりの建設業でも特にキツイので有名な仕事でした。

手っ取り早く稼げる仕事でもあり、最初の一ヶ月は先輩について見習いをして、次の一ヶ月は日給制で一人で現場を回り、三ヶ月目から一人親方として請負で仕事を始めるという強行軍ではじめました。

整備工場から建設現場への転向でしたが、「使う道具が違うだけで基本は同じだ」と感じ、作業そのものはすぐに対応できたのです。

戸惑ったのは建設業界で使われる独特の言葉が全然わからなかったことです。

「ビテイのタテジの前に打っといて」と言われても「屋上のペントハウスに行っといて」と言われても「シンダーコンの下は防水やから気ぃつけてな」などと言われても何のことかわからず、その場で監督さんに教えてもらうこともよくありました。

見習いの時、先輩が施工伝票のお客様の名前の欄に「JV」と書いているのを見て、建設業者さんの名前には「JV」と付けるものなのだと思い、かたっぱしからそうやって書いていたら、「ウチはJV(共同企業体)とちゃうで」と言われたこともあります。

そうやって恥をかきながらも少しずつ腕を上げていき、ヘビーだけど大きく稼げるビルなどの耐震補強工事の仕事を専門的にまわしていただけるようになりました。

結婚もし、ささやかながら住宅を購入し、仕事にも大きなやりがいを感じていたそんなある日、やってしまいました・・・。

大けがからの復帰、そして…

若いころからバイクが好きで乗っていました。

ただ乗るだけでなく趣味でモトクロスレースにも参加していました。そのモトクロスレースで大けがをしてしまったのです。ジャンプセクションで大きくジャンプした私は、エンストして止まっていた前車の上にまともに飛び降りてしまい、吹っ飛びました。

嫁の運転するハイエースの荷室にバイクと一緒に転がされた私は、大阪では有名な外科病院である辻外科病院へ直行。診断の結果、右足首の粉砕骨折・右肩の重度の脱臼・胸骨の圧迫骨折。担当医の先生にいわせると「今まで見てきた症例の中で2番目くらいに悪い状態」だったそうです。

私は楽天的なほうなのですが、念のため「ちゃんと元通りに直りますかね?」と聞いてみたら、「元通りに直るどころか、再び2本足で立てるようになるかどうかの心配をしなさい!」と叱られました。5時間ほどかかる手術をして4ヶ月の入院、最初のうちは寝たきり状態でした。

周りの誰もが、現場仕事はもうできないだろうと感じていたようですが、毎日整骨院に通ってリハビリ中心の施術を受け、スポーツジムでトレーニング、その他松葉杖をついてひたすら歩くなど、必死になってリハビリを行った結果、なんとか現場に復帰することができました、事故から10ヶ月経っていました。

それからの私は、以前にもまして耐震工事のアンカー打設に精を出して働きました。専属の請負契約をしている会社のところへ、工務店さんから私を名指しで仕事の依頼が来るようになったのもこの頃です。

でも、私はそのころ実をいうと、いつまで現場で働くか、いつ職人をやめるか、そういうことばかり考えるようになっていました。

なぜかというと、モトクロスのけがの後遺症で私の右足首は健康な人の半分くらいの角度しか曲がらなくなっていたのです。加えて慢性的な痛み、毎朝起きると足がなじんでくるまでびっこを引かなければ歩けない状態です。

いったいいつまで元気で働くことができるだろうかと少し不安になりました。「こりゃあ、俺の職人生命は人より短いかもしれんぞ」と思い、そして将来のために何か資格でも取っておこう、そう考えました。

建設業で独立したい方のための行政書士に

行政書士に決めたのは単なる偶然です。最初は何をする人なのかさえよく解りませんでした。

でも調べてみると、建設業許可申請という業務ができることを知り、そういうふうにまた建設業とかかわっていくことができるのならとてもいいことだと思いました。

そして、その業務だったら私にしかできない形できっと人様のお役に立てると確信し、現場で働きつつ勉強を始め、要領が悪かったので人の何倍も時間がかかりましたが、資格を取って開業することができました。

今は、お客様の喜ぶ顔を見るのがうれしくて仕事をしているようなものです。実際、この業務は「人様のお役に立てた!」と強く感じることが多い業務です。

世のため人のためなどという大それたことを事務所方針として掲げるつもりはありませんが、私を信じてくれたお客様には幸せになってもらいたいと思っております。